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正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いていた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「何にしても、えらいこつてしたなあ」
この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。
彼は近来今日ほど熱心に注意深く患者を診たことはなかつた。今までは単に顔見知りだといふにすぎなかつた高間道平といふ一介の老人、しなびた、日焼けのした肉体を、たゞそれだけでない、ふしぎと一脈のつながりあるものとして見た。それは又、この紅黒い、むくむくした房一にもつながつているものだつた。そのどこから来たとも知れない、ぐつと身体を近づけたやうな親しさを、今、練吉は隣りを歩いている房一に感じていた。
と、小谷が徳次の足に目をつけて云つた。どこで手に入れたのか、徳次は白い紙緒の藁草履をちやんとはいていた。
「どうでした」
「水神淵を知つとんなさるだらう」
「なんですか、御挨拶まはりですかね、それはどうも御苦労さまですなあ。――まあ、お上り下さい」
「ね、どこも悪くない。だが、その丈夫な身体の中に虫が巣をつくつとる。いゝかね、心臓病とか腎臓病とかいふやうなものではない。虫を駆除する、つまり身体から出してしまへばあんたの身体はもと通りぴんぴんして来る。悪い虫だが、とつてしまへばよいのだから、他の病気よりは性質はいゝと云ふことになる。――判つたかね」
「せんせいですか」
対診に来てくれた練吉のことを気にかけているのだつた。
時々、澄んだ甘い柔味のある、痩せたすんなりした身体つきを想像させるやうな盛子の声が、はじめは稍張りのある調子で起つて、途中で何かしらはにかんだやうに細く聞えがたくなり、又時々ピツと語尾が跳ね上るやうになつて響いて来た。それは身体の動きとは別に、声そのものが絶えずどこかに柔かくくつついたり離れたり、又そこらを歩きまはつたりしているやうであつた。
「なあに、後から来るのんはほんの擦かすり傷みたいなもんやから、大事ありません。――時にせんせい、何んぼ差上げたらえゝでせう?」